2010/01/31
筑波山は標高877mと深田久弥が選んだ日本百名山の中ではもっとも背が低いが、関東平野のほぼ全域から眺望できる優美な姿を、はるか上古時代から人々に愛されてきた。
南北に伸びる筑波山塊の東麓に、柿岡盆地という小さな盆地が広がっている。たまたま先日、笠間市の発掘調査現場に見えた赤塚次郎氏を、筑波山に案内したおり、吾国山(わがくにさん)の道祖神峠を経由して柿岡盆地へ入り、南北に伸びる広域農道(フルーツラインという面白くない名前が付けられている)を通って筑波嶺に至る経路を選んだ。その時、古き良き日の日本の村里の面影を色濃く残すこの盆地の景観が、いたく気に入ってしまったのであった。その景色は風土記にある次の記述を思い起こさせるものだった。
それ常陸の國は、堺はこれ広く、地(くに)もまた遥かにして、土壌(たはた)も肥え、原野(はらの)も土肥えて、墾発(ひら)く処なり。海山の利(さち)ありて、人々自得(やすらか)に、家々賑わえり。
もちろん、電信柱は電線が視界を遮っているし、アスファルトの道は風情がない。しかし、そうしたノイズは脳内でカットできる。風土記の時代に火の見櫓なんてもちろん有りはしなかったけど、それはそれ、里の景観に良いアクセントを加えてくれている。ビニールハウスだって、見方によっては悪くない。
そういう訳で、茨城に仕事で出かけた帰り道は、慌てて高速道路なんか使わず、峠道を越えて東国の山の辺の道を通ることが多くなった(余計に時間がかかるけど、高速道路代も節約できるしね)。モーツアルトのピアノ協奏曲11番(K.413)など聴きながら、よく手入れされた田畑や村里、遠い山並みを眺めつつ、ゆっくり車を走らせていると、どこからかとても肯定的な感情が沸き上がってきて、実に満たされた気持ちになるのだ。

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2010/01/24
樹木の発する神の気配。森の中では確かにそれを感じられるのに、樹神の気配をカメラを通して画像に留めるとなると、それはことのほか難しい。「さあ写せた」と意気揚々と帰って来て、勢い込んでディスプレイを眺めてみても、写真には気配のケの字も感じられないことの方が多い。単なる物体としての「木」が写っているだけだ。これには、いつも打ちのめされる。
樹神の気配をレンズで捉えやすいのは、今にも雨が降ってきそうな雲の下、それどころかいっそのこと雨の中、さらには深い霧の中、払暁、黄昏時である。ただし当然、難しい光の条件の中での厳しい撮影を強いられることになる。己の魂が樹気と呼応した一瞬に、咄嗟に光を判断してシャッターを切る。そうすると、運が良ければ百回に一度くらい、とりあえず満足できる写真が撮れる。
よく晴れた、物理的な意味での撮影条件に恵まれた日に、これはという写真が撮れることは滅多にない。「只の木」が写っているだけで、「気」を撮影できない。今回も、赤塚次郎氏とともに感激した筑波山の「不思議の杜」を再訪して、木々と岩石群の放つ気に圧倒されながら撮影してきたが、まずもって全滅であった。山林の気への挨拶が足りなかったのかもしれない。もう一度、静かに訪ねてみよう。
神気の撮影の敵は、晴天だけではない。デジカメの撮影能力の向上も敵となる。長く愛用して来たD70がついにお釈迦になり、D90に買い替えた。これが物理的に良く写りすぎて、逆に全体を白々しく、のっぺりとさせてしまう。癖を飲み込んで、写したい写真を撮れるまで、一苦労しそうだ。
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2010/01/11
良い街には良い本屋がある、というのが私の勝手な信念である。例えばコルマールは人口七万に満たない小さな地方都市であるが、古くからアルザス地方南部の文化と経済の両面で中心的役割を果たしてきた。今でもその伝統は受け継がれ、文字通り中世そのままの木と石と漆喰の街並みに、私なら三つ星を付けたい個性的な本屋が何軒か店を構えて繁盛している。こういう街には好感が持てる。

なかでも私が気に入ったのが、マルシャン通りの角にある”Lire et chiner”という古本屋である。コルマール旧市街のシンボル的な存在であり、『ハウルの動く城』にも出てくるフィスター邸の真向かいにあるので、店の前の石畳の道は、有名なルネッサンス様式の建物を背景に記念撮影をしようという観光客でいつもごった返している。くだんの本屋の店先にもそうしたツーリスト向けに、アルザスゆかりの作家アンシの画集や、新刊の観光ガイドが平積みされているが、一歩店の内側に足を踏み入れると、がらりと雰囲気が変わる。狭い通路の両脇に大量の古書が並べられ、外の喧騒が嘘のように静かだ。無数の書籍と頑丈な木組みの建物が、外部の音を飲み込み遮断してしまうのだろうか。お向かいほど有名ではないが、この店も負けないくらい古い時代の建物で、くすんだ柱や梁の間に天井まで並ぶ書物の群に囲まれて佇んでいると、なんだか自分がファウスト博士にでもなったような気分に襲われる。そういえば、応用物理学を専攻するいっぽう、実はヘッセが大好きでいろいろな書物を読み込んでいる甥の龍馬も、この店が町の本屋の中でいちばん好きだと言っていた。

この古本屋のよいところは、写真集や画集、とくにアルザスやコルマールの地方史関係の書籍が多いことだ。私はフランス語は全くだめだけれど、年号や固有名詞くらいなら読み取れるし、また写真や挿図の多い本を探せば、何が書かれているのかある程度は理解できる。実際、この本屋で入手したコルマールの古写真集や、地元の高校生や教養課程の大学生を対象に書かれたと思われるアルザス史の教科書は、図版や地図が多数掲載されていて、書斎に置いてすごく役立っている。
いっぽうカテドラルの前の広場には、地下一階、地上二階の三層のフロアを持つ近代的な明るい本屋がある。入り口付近には、やはりツーリスト向けの観光ガイドや地図が平済みされているが、さきほどの古書店の軒先より、ずっと品揃えが多い。英語で書かれたアルザスやコルマール関係の地方史も並べてあるが、手にとってみるとナチス占領時代の現代史を扱った書籍が多い。アメリカやイギリスから物見遊山にやってきた観光客が、ふらりと訪れた本屋の店頭で、どれだけこうした重いテーマの書物に興味を持つのか疑問であるが、「アルザスやコルマールを訪ねたからには、是非こうした本も読んで欲しい」という、この本屋の店主の意志の表れなのだろう。

入り口付近のツーリスト向けコーナーを別にすれば、この大きな本屋の顧客の大半は地元住民であろう。店の中を歩き回って気付くのは、手軽なペーパーバックもさることながら、立派な装丁の分厚い文学書が、それなりに売れていることだ。シェークスピアからカミユまで、内外の幅広い作家の単行本が並んでいた。書籍の鮮度から見て、商品の回転は悪くはないと思われる。つまり、コルマール市には書物というものに対して単なる文字情報以上の価値を認める読書家の人口が多く、愛蔵書として高額のハードカバーを時たま購入することを通して、地元の本屋の経営を支えているわけだ。

フランス語が読めない私にとって面白いのは、やはりイラストや写真が豊富な雑誌類である。コルマールに限らず、フランスの書店でとくに興味深かったのが、考古学・古代史ファン向けの雑誌であった。時代別、あるいは地域別に、いろいろな雑誌が出版されていた。いずれも紙面のデザインが非常に洗練されていて、日本の類似雑誌にはない垢抜けたものであった。こんなクールな雑誌が市販されれば、きっと日本でもよく売れるだろうなあと思い、当時『文化遺産の世界』を編集していた佐藤涼子さんへのお土産に、何部か購入したことがある。現在の日本の一般読者向け考古学・古代史関係の雑誌は、学者先生が知識の無い大衆を啓蒙するという、一昔前の上から目線のスタンスで編集されることが多い。中途半端に学問がかっているので、むやみに小難しく、デザイン面でも野暮ったい。私は、フランスかぶれの文化人がありがたがるほどフランスが何でも優れているとは思わないが、こと考古学・古代史関係の一般向け雑誌に関して言えば、悔しいけれど日本が完全に負けている。考古学者や古代史家は反省しないといけないし、出版社は部数を伸ばすためにも、欧米の雑誌を見習うべきだろう。
ところで、カテドラル前のこの大きな書店の雑誌コーナーで、コンピュータ関係の書籍をあれこれ手にとって眺めていた時、向うから近づいてきた白人の若者に、フランス語で何やら質問されたことがある。店員だと勘違いされたらしい。フランス語は話せないと日本語で答えると、大いに驚いた様子で、詫びながら慌てて遠ざかっていった。フランスには旧植民地から多様な人種が流入しているから、肌の色だけでは区別はつかないが、やはり海外からやってきた観光客と地元の住民とでは雰囲気が大いに異なる。地元に住む本屋の店員と間違われたのは、なんとなく愉快であった。私にとって本屋の店主は、少年の頃からなりたいと思っていた職業の一つなのだ。

グランリュ(大通り)沿いにも個性的な本屋が二軒ほどある。そのうちの一軒が、適当に英語読みするとポール・ハートマン、フランス語で何と読むのか知らないが、間口は狭いが中に入ると意外に奥行きがあって広い、上下階二層のフロアをもつ書店である。内部の錯雑とした間取りと、薄暗い照明とが、建て替える前の昔の三省堂を思い起こさせる。懐かしい雰囲気の本屋だ。
私はこの本屋で『アルザスの城砦-歴史・考古学・建築』という専門家向けの雑誌があるのを見つけた。オーケーニヒスブルク城の石垣についての調査報告があったので、興味を引かれて、置いてあった第一巻から四巻まで購入してきた。たしか一冊十五ユーロ位、日本円で二〇〇〇円程度であった。先にほめた考古学、古代史ファン向けの雑誌とは正反対に、門外漢の人間が読んだらクソ面白くもないカチンコチンの論文誌である。テキストが中心で、その合間に城郭の測量図や出土した遺物の写真などが淡々と並んでいる。学術論文や発掘調査報告が中心の専門誌で、無味乾燥ぶりは日本の考古学のそれとあまり変わらない。違いがあるとすれば、出土品の実測図の水準だろう。日本の方がはるかにレベルが上である。欧米考古学の観察表現は一般にかなり粗い。出土品を観察し、それを第三者に伝える作図能力に関しては、日本の考古学に一日の長があると断言できる。もっとも、日本の考古学は国内で自己完結してしまい、国際的な情報発信を怠っているので、その一日の長が海外に伝わっていないのが原状である。日本の考古学者は、国内の考古ファンに対しても、海外の同業者に対しても情報発信が下手だ。

話が横道に逸れた。コルマール旧市街の道はどれも不規則に曲がりくねり、複雑に交錯し合って迷路そものである。ただしその周囲をぐるりと廻るだけなら、一時間でこと足りる。その小さな空間の内のところどころに、他にも何軒か個性豊かな面白い本屋が店を構えている。観光客が購入するガイドブックと地図だけでは、何軒もの本屋は成り立たない。クリスマス・シーズンだけで百万人もの観光客を集める古都が、お伽噺のようなその街並みを長く保ってこられたのは、町の人々がその高い精神文化を堅持してきたからに違いない。彼らが支える本屋の佇まいが、そのことを教えてくれる。
私は、コルマールと対照的な、越後平野北部の城下町を思い出す。雪の降りしきる夜、母のアルザス行きを妹から打診された時に私が仮住まいしていた、あの町だ。その町にも良い本屋があった。否、かつては良い本屋であったものがあった。城下町らしく不規則に蛇行する大通りに面するその本屋は、間口が四間ほど、いわゆる鰻の寝床で、非常に奥行きがあり、地方都市に昔からある書店としては、なかなかの店構えであった。発掘調査の仕事が休みの日、町中を散歩していてその本屋を見つけたときは嬉しかった。見れば岩波文庫も並んでいるではないか。
ところが、その古い佇まいの本屋に並んだ背表紙を眺めていくうちに、私は急速に悲しくなっていった。大半の書物の表紙が色褪せ、黄ばんでしまっている。長いこと売れないまま、そこに並んでいるに違いない。これでは客は皆、郊外のブックオフに行ってしまうだろう。そしてますます本が売れなくなり、化石のように風化した書籍が文字通り店ざらしにされていく。そうした悪循環の後に、遠からずあの本屋も店じまいして、閉じたままのシャッターが大通りに一つ増えるのだろう。古くから住民の精神文化を支えてきた個性的な本屋。そうした書店の存在を支えられない町。かつて十万石の大藩が城を構えた雪国の町には、そのよすがを今に留める風情はどこにもない。町外れには確かに茅葺きの足軽長屋が残り、観光ポイントの一つにはなっている。しかし、城下本来の街並みと切り離されてぽつんと存在しているだけの建物は、歴史のなかに生きていない。取ってつけたような感じを受ける。城跡に建て直された、白亜の三階櫓とて同じことだ。守り伝えるべき町の空気が失われたあとに、虚しく点として孤立する建物を誇ったところで、訪れる人の心を深く感動させることはできない。思うに、古くから続く本屋を大切にする精神的エネルギーを失った町は、つまるところその街並みをも廃れさせ、古き良き日の佇まいを捨て去って中途半端な現代風建築の群れに並べ替えた大通りは、黴の匂いが漂うシャッター街へと導かれていくのだ。

コルマールのように、古い街並みが生きた歴史とともに温存されている都市には、堅固な精神文化も保たれているにちがいない。そして、その分かりやすいバロメーターとなるのが、ゆかしい本屋の存在なのではないだろうか。その土地固有の歴史をしっかり継承している文化的に堅牢な都市には、年輪の刻まれた街並みの中に、何かしら個性的な良い本屋が必ず見つかるものだ。逆に、都市として繁栄しているように見えて、その実は住民の文化的な空洞化、空疎化が進んでいる精神生活の衰退した都市には、どこにでもあるような面白くない本屋しか見つからない。ベストセラーだけを大量に並べた郊外型の書店しかないような都市は、無個性でのっぺらぼうな化粧合板の家並みに占領されているのがお定まりだ。そんな町を散歩しても、ちっとも面白くない。観光客が集まるわけがない。町の本屋が置かれている状況は、その都市の住民の歴史的な精神のあり処、文化的な水準を映す鏡であるにちがいない。私には、そのように思えてならないのである。


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2010/01/10

関東平野の北に聳える日光連山の南麓に、栃木市というこぢんまりとした街がある。栃木藩一万石の可愛い城下町であるが、江戸時代から明治時代にかけて、河川を利用した水運によって大いに栄えた。市の中央を流れる巴波川には大小の掘割が合流し、穏やかに水草が揺れる川の岸辺には、石垣の上に延びる黒板塀の向こうに土蔵が軒を並べて、その影を水面に落としている。町の辻々や屋敷内、路地裏の古木の蔭のそこかしこに社や祠が祀られ、季節になると、商家の重い瓦屋根の家並みの向うから、お囃子の音が聞こえてくる。私が生まれたのはその街の入舟町鶉島、堀割で四角く結界された小さな島である。もっとも鶉島の地名は消滅して久しい。今となっては、自分の戸籍に記された「鶉島」の文字の向こうに、遠い日を偲ぶことしかできない。
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